つめたい手

つめたい手

 触れた指先から伝わる温度 君と僕との温度差を知る

×××

 カツカツ、という独特のノックの音が部屋に響いた。
 少し間を置いてもう一度。
 部屋の主は返事をしなかった。このノックをする来客は一人しか居ないし、彼は読書の邪魔をされるのが嫌いだった。
 客のほうもそんな彼の性格は良く理解したもので、返ってこない返事を待つことなどせずドアを開けた。
 途端。
「やぁだ、だらしない」
 心底呆れた声で、来客――プリーストの佳柚(カユウ)は散らかり放題の部屋と、その主を見下ろした。

×××

「……ったく…俺の部屋なんだからどうしようと俺の勝手だろう。暑いんだから無駄に騒がないでくれ」
 心底うんざりした表情で、部屋の主は慌ただしく掃除を始めた佳柚を見やった。
 彼の名は律という。暑いからという理由で派手に着崩された法衣が佳柚と同職――プリーストの地位を示している。
「ダメよ律。こんな散らかった部屋を見せられて放置できるほど私は寛容じゃないの」
 佳柚は律の抗議を一言で切り捨て、床に散乱した本をてきぱきと拾い集めて本棚へと運んでいく。
 一度スイッチの入ってしまった彼女を止めるのは難しい。観念した律は机に足を投げ出し、取り出した煙草に火を付けた。
「もうっ、また机に足乗せて行儀悪い! 煙草の吸いすぎも身体に良くないから止めなさいって言っているでしょ!」
 途端に飛んでくる小言に律の顔が引きつる。
「……っのなぁ……いい加減子供扱いすんな、何歳だと思ってンだよ」
 常日頃は無神論者を標榜し、何者にも遠慮などしない律だが、唯一ペースを乱されるのが二つ年上の従姉である佳柚だ。
 小さい頃から姉貴分として君臨されてきただけに、律の心の底では佳柚に微妙に抵抗しきれない部分がある。そのあたりを佳柚も心得ているため、何かにつけて律の世話を焼きに来る。
「実年齢が幾つになろうが、あんたが私より年下なのは永遠に変わらない真理よ。第一、大人だと言うのなら整理整頓ぐらいきちんとしなさい。放っておいたらあんた、本に埋もれて死ぬか餓死するかのどちらかなのが目に見えてるじゃない」
「……あーもう、俺が悪うございますよ、片づけりゃいいんだろ片づけりゃ」
 ぴしゃりと言い切られ、律も渋々机の周囲を片づけ始める。
 積み上げた本を持ち上げた弾みで床に転がったペンを、佳柚の白い指が拾い上げた。
「ほら、細かいものから先に片づけたほうがいいわよ」
 ペンを受け渡す瞬間、互いの指が触れる。
「……ねぇ律」
「……あ?」
 「いつも思ってたけど、あんたの手って冷たいわね」
 律は一瞬何を言われたのか解らない、という顔をしていたが、すぐに憮然とした表情になった。
「……ふん、どうせ俺は冷血だからな。手も冷たいんだろうよ」
 不機嫌になった従弟を眺めて、佳柚は優しい笑みを浮かべた。
「あら、知らないの?手が冷たい人間は心が温かいって言うじゃない」
「……はぁ?何だその科学的根拠のなさそうな迷信」
「信じるか信じないかはあんたの自由だけど」
 "解っているのよ"と言いたげな微笑みに居心地の悪さを感じ、律は顔を背けて再び散乱した本を拾い始めた。

×××

「しかしほんと……あんたのこの溜め込み癖はどうにかならないのかしら。ある意味特技よね、もう」
 ようやく片付いた部屋を見回して佳柚は深い溜息をついた。
 反論する材料が欠片も無い上、自覚症状はある律はだんまりを決め込んでいる。
 そんな様子を呆れ半分で見ていた佳柚が、ふと表情を改めた。
「あんた、いつまで堂々と上層部に反抗しているつもりなの」
「……俺だって腐っても神楽の人間だからな、奴等だって疎んじてたって迂闊に手出しはしてこない。むしろ、直接潰しに来るような意気があるなら少しは見直してやるよ」
「律!」
 佳柚の声に咎める響きが混ざる。
「媚びを売れとは言わない、でもあんたの今のやり方じゃ確実に損をするわ。戒だってあんたの事ずっと心配して……」
「兄貴の名前を出すな……!」
 絞り出すような声は、静かではあったが怒りに震えていた。
 佳柚は再度深い溜息をつくと、法衣に付いた埃を払った。
「たまには本家にも帰ってきなさい、みんなあんたの事心配してるんだから」
 ぽんぽんと子供のように頭を撫でられ、律がむくれた表情で睨み返す。
 それじゃあね、と佳柚が去った後で律はベッドの上に転がった。

 『……だから、手の冷たい人ってねぇ、心が温かいんだってさー。そういや律も手が冷たいけど、優しいもんね。偶然かもしれないけど』

 間延びした口調でにこにこと話す在りし日の兄の笑顔が思い出されて、律はそれ以上考えることを放棄した。
「自分が俺より冷たい手になってりゃ世話ないだろ……バカ兄貴」
 窓の外で鳴き続ける蝉の声を聞きながら、律は瞳を閉じた。

 温かいよりもひんやりした手が好きなんです。

2005.07.18