前編 "Everything to love,"
Prologue.あるいはあるひとつの始まり
麗しの都レインシャボー。
かつて幾多の詩に詠まれ、讃えられた美しい町並みはいまや、その面影を残していなかった。
建物の多くは破壊され、瓦礫の下からは時折、下敷きとなった人々のうめき声が微かに聞こえてくる。埃と、むせかえるほどの濃密な血の匂い。
温泉に隣接した施療院も、破壊を免れてはいなかった。
外壁は大きく破壊され、床には飛び散った薬品と大きな血の染み。破壊者たちは、その対象に例外を設けることはしなかったらしい。
その瓦礫の下で、一人の青年が死に瀕していた。
腹部に大きく開いた傷口からは止まることなく血が流れ続け、もはや自分が助かり得ぬ事を彼は悟っていた。
(許さない……)
薄れゆく意識の中で彼が思い続けることはひとつ。
(殺してやる……)
もはや、その願いが叶わない事に彼が涙を流した瞬間、
「気に入ったわ」
最後の気力を振り絞って視線を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
ぼろぼろに傷ついた彼を見下ろして、少女はにっこりと微笑んだ。
美しく、けれどどこか禍々しさを纏わせながら。
「あなたの願い、叶えてあげてもいいわ――私の為に協力してくれるのなら」
少女の細い指が青年の頬に触れる。
(復讐できるのなら……この身などすべ…て……あなた…に捧…げ)
それまでだった。既に肉体の限界を超えていた彼は意識を手放し、冷たい床に転がった。
「いいわ、その憎悪。私のために、世界を砕いてね」
二度と動かなくなった青年を抱え上げ、少女は昏い笑みを浮かべた。
Scene1.虹の消えた日
その日、"約束の地"エリュシオンに暮らす人々は己の目を疑うことになった。
雨上がりの空に掛かる虹が消えたのだ。
「消えた」のではなく、むしろ消滅と言ったほうが良いかもしれない。
音もなく砕け散る虹に、人々は驚愕した。
万物を司る七色のヴァート。その象徴たる虹が消えるということが一体何を意味するのかと……。
「……薔薇の……花?」
一人で空を見上げていた少年は、空から振ってくるモノに気付いて手を伸ばした。深紅の薔薇の花びらが、どこからともなく風に舞いながら落ちてくる。
『……で』
「……え!?」
突然聞こえた声に、少年は驚いて周囲を見回すが、側には誰もいない。
『わすれないで……』
もう一度、今度はもうすこしはっきりと。
消えかけたような、か細い少女の声。
『忘れないで。神と人の絆だけが……傷ついたこの世界を癒す力になるから……』
――ワスレナイデ……
いつの間にか、薔薇の花びらは降り止んでいた。
「……夢?」
微かに残る薔薇の香り。握りしめていた掌を開くと、そこには薔薇の花びらが確かに残っていた。
Scene2.手の鳴るほうへ
「すこし遅くなっちゃったな……」
夕刻、モーリスの外れへと向かう街道を、一人の青年が歩いていた。すっかり日も暮れ、だいぶ視界も悪くなってきていた。やはり無理せず途中の宿に泊まるべきだったか……そんな事を思いつつ足を速めた矢先、
どん。
「……あ、すみませ……」
誤りながら顔を上げて彼は絶句した。
不気味な白い仮面を被った男がそこに立っていた。
そして、その手に握られたもの。
「……え?」
月の光にぎらりと一瞬光ったそれが、自分に向かって振り下ろされた斧だと、果たして彼が認識しえたのかどうか。
びちゃ。
返り血で全身を紅く染めながら、男は無表情に斧を振り下ろす。
(まだ……足りない)
動かなくなった哀れな青年を見下ろして、男はゆらりと歩き出した。
それはさながら、飢えた獣が獲物を求める様に似ていた。
×××
「理由が何なのか知らねぇが、人殺しして良いことなんて絶対に無ぇ!」
ぐっ、と握り拳を作って叫ぶ少年を、何事かと道行く人が振り返る。
周囲から奇異の視線が注がれていることも知らず、その少年――キバ・クロガネは決意を新たにしていた。
「ここはひとつ、おいらがやった奴を探して、二度とこんな事ができねぇようにとっちめてやらないとなって思うんだよ。な、カゲ!」
「……ばう」
ぽん、と叩かれたシャドウドッグのカゲが、肯定ともなんとも付かぬ返事を返す。
どこか冷めた目線はさながら、
(……また始まったよ)
とでもいったところだろうか。
キバは少年らしい純粋な正義感から、一連の事件の犯人に対して怒っていた。
「まずは現場だ!」
赤いマフラーを風になびかせ、駆けつけた第一の現場でキバは早速『怪しい奴』を発見した。地面に屈み込み、何やら熱心に調べている男が一人。
「おい、おまえ何してるんだっ!?」
キバの怒声に、その男は不機嫌そうに振り返った。
男、というよりはまだむしろ少年と呼ぶべきかもしれない。
彼は鞄から一枚の書類を取り出すと、キバに突きつけた。
「……ん? えーと……」
何やら難しそうな単語が並んだ書類から、キバは必要最低限の単語を拾い上げた。
「……ルドゥファ・イルヴートを正式な協力者とみとめ、事件現場のケンショウを、キョカする……?」
「そういうことだ」
よくよく見ればルドゥファの後方にはモーリス軍の武官とおぼしき人物が立っており、数名の部下に指示を下していた。
ルドゥファは軍に捜査協力を申し出、現場に立ち入り独自の調査を行う許可を得ていたのだ。
「……ごめんっ! おいらの勘違いだ! 謝るっ!」
素直に頭を下げるキバに、ルドゥファは少し表情を緩めた。
「まぁ、判れば構わないさ。悪気があった訳じゃないだろうしな」
そう言って、ルドゥファは額の汗を拭った。
「なぁなぁ、それで、何か判ったのか?」
キバの、ややもすると馴れ馴れしい態度に一瞬眉をひそめながら、ルドゥファは首を横に振った。
様々な薬品などを駆使して現場を洗いざらい調査したものの、既に軍によって纏められた報告以上のものは発見出来なかった。
「まぁ、現場はここだけではないし……他も当たれば何か見つかるかもしれない」
自分に言い聞かせるようにルドゥファは呟く。
「なぁ、おいらもついて行っていいか?おいら、こんな酷い事する犯人は許せねぇ! 何か手がかりが判るなら、協力するからさ!」
おいら、鼻は利くんだぜと笑うキバにルドゥファが頷いた時。
「あれ、どうかしたのかな?」
後方に控えていた武官の元に、血相を変えた兵士が駆け寄り、何事かを報告していた。
遠目から見ても、緊迫した事態なのが伺える。
「……何かあったんですか?」
ルドゥファの問いに、武官はやや強張った表情で振り返った。
「また殺しだ。……今度は一度に三人やられたらしい」
「……!」
二人は顔を見合わせた。
×××
その現場は、モーリス領の外れの方に位置する小さな村だった。
平時なら静かであろう村のあちらこちらには兵士が立ち、時ならぬ喧噪に包まれていた。
「むやみやたらと室内の物に触れないように」
きょろきょろとしているキバに釘を刺しながら、武官が二人を現場となった家に招き入れた。
「……これは」
「ひでぇ……!」
ルドゥファが端正な顔をしかめ、キバも嫌悪感を露わにした。
部屋の壁や天井にはべっとりと被害者の血が飛び散り、事件の凄惨さを物語っていた。
「殺されたのはこの家の主と、その息子夫婦。六歳になる孫娘は無事だったが、あまりのショックで一時的に言葉が話せなくなっているらしい。……まぁ、当然だな」
報告書を読み上げながら武官はタバコに火を付けた。
「犯人は大柄な男で逃走の際、悲鳴を聞きつけて様子を見に来た隣人にも重傷を負わせている。その話によれば、何やら仮面のようなものを被っていて、凶器は斧の類だったそうだ。先日この近くの街道で起きた殺しも、そいつの仕業かもしれん」
「……おかしい」
鞄から取り出した今までの資料に目を通して、ルドゥファが首を傾げた。
「今までの事件で複数の被害者が同時に出た事はない。殺害方法も複数だが、このように力任せに斬殺というパターンは無かった……ということは」
「どういうことなんだ?」
キバがさっぱり判らないといった表情を浮かべてルドゥファを見た。
「犯人たちの方針が変わったか」
「あるいは、新手の便乗犯てところか」
武官がルドゥファの言葉を継いだ。頷くルドゥファ。
その時ふと窓の外を見たキバは、不審な人影に気付いた。大柄な男が、村の後方にある林の側に無表情に立っている。
何気なく窓から身を乗り出したキバが表情を強張らせた。
「……あいつ!ものすごい血の匂いがする!!」
キバの鋭敏な嗅覚が、風上から流れてくる匂いを捉えていた。
「何!?」
窓から外に飛び出したキバが男に追いすがる。逃げる男、その足下に後方からルドゥファが瓶を投げる。
とりもちに足を取られた男にキバが飛びついた。
「おいっ、お前があんな酷い事したのかっ!?」
「……」
男は何も答えなかった。答えの代わりにキバを腕の振りだけで投げ飛ばす。
「うおっ!?」
投げられたキバと激突するのをなんとか避け、体勢を立て直したルドゥファが還短剣を投げつける。
それを避け、男は強引にとりもちを引きはがして林の中へと逃げ込んだ。
「待てっ!!」
追いすがろうとするキバを、ルドゥファは止めた。
その後軍によって男の手配書が作成され、モーリス全土に伝えられることとなった。
新たにモーリス領民を震撼させることとなった仮面の男――彼らは知らないが、その名はジェイソン・エックスという。