400words-#03:「南の宿にて」
私が生まれたのは、遙か北にある森。とはいえ、正直その頃の記憶は朧気です。
私と兄弟たちを仕込み、自分たちの役割を教えてくれたのは、北の街の親方でした。
幾人かの兄弟と一緒に、この宿に売られてきたのは今から十年程前のことになります。
何せこのような仕事なものですから、私は様々なものを耳にします。
幼い子供たちの安らかな寝息。
若い夫婦の些細な口論。
老いた商人の溜息。
道ならぬ恋人の密やかな睦言。
悩める詩人の憂い。
華やかな少女たちのお喋り。
今宵もまた、誰かが私の上で言葉を紡ぐのでしょう。
私はそれに答えることはありませんが、じっとそれに耳を傾けます。
南の街の宿屋、二階の角部屋が私の部屋。
女将さんが私の身支度を調えて、今日もお客様をお招きするのです。
私は樫の木の寝台。北の森で生まれ、北の町にて形を与えられ、今はこうして南の街の宿に勤めています
お題「ベッド」
2010年6月