夏の日、モノクロームの午後
昼過ぎの美術室、だけでなく第一校舎はひっそりと静まりかえっていた。 窓の外では無数の蝉たちが、その存在を主張するように鳴いている。
「暑いな」
秋彦は呟き、額の汗をぬぐった。窓から強烈な日差しの差し込む時間は過ぎたとはいえ、真夏の午後。冷房のない美術室にはむっとするような熱気が籠もっている。
「だってそりゃぁ、夏だもの」
スカートから伸びる細い足をぶらぶらと揺らし、夏実が笑った。その動きにあわせて、腰まである長い黒髪も揺れる。夏実が腰掛けているのは机の上だが、それを見咎める人間は、いない。
「夏実、動かないで」
はーい、と笑いながら夏実が元の姿勢に戻るのを待って、秋彦は再びスケッチブックに鉛筆を走らせた。
部屋の中に満ちているのは少しカビたような絵の具の匂いと、古ぼけた木の床から漂うワックスの匂い。窓の外から吹き込むぬるい風が、汗で額に張り付く秋彦の髪を撫でた。
校舎が静かなのは当然、今は夏休み。わざわざ活動する文化部はないし、唯一の例外である吹奏楽部も今日は休みだ。遠くグラウンドの方からは、ときおり野球部の練習試合の歓声が聞こえてくる。
「ねぇ秋ちゃん、今の制服いいよね。私立の女子校みたくおしゃれでさ。どうせならあたしも着たかったなー」
セーラー服の胸元の赤いスカーフを弄りながら、夏実がぼやく。ちょうど昨年の新入生から制服がリニューアルされ、デザインも色も評判の悪かった学ラン・セーラー服に代わり、ブレザーが導入されている。そちらがあまりにも洒落ているので、在校生からは恨みの声があがったものだ。
「仕方ないだろ、変更になったのは去年なんだから」
わかってるけどさぁ、と今度は髪の毛を弄り出しそうになる夏実にストップを掛け、秋彦は鉛筆を走らせる。蝉の声が途切れてしまうと、なぜだか無性に寂しいほどの静けさを感じた。まるでふたりだけ、世界や時の流れと隔離されてしまったような。
感傷だ、と秋彦は思う。
「……ん、できたかな」
「綺麗に描けたー?」
スケッチブックの上では、白と黒で再現された夏実が微笑んでいる。ぱっちりとした二重の瞳や、すっと通った鼻筋など、我ながら良く描けていると秋彦は自画自賛する。
だが、それを覗き込んだ夏実はむーっと頬を膨らませた。
「秋ちゃん、これじゃ去年と変わらないよぅ」
「そう言ったって……去年より多少は上達してるだろ? それで勘弁してくれ」
なおもむくれる夏実に、秋彦は溜息をひとつ。
「モデルが全然変わらないんだ、絵だってそう劇的に変化するもんか」
遠くでかぁん、と金属バットがボールを打つ快音が響いた。一瞬遅れて大きな歓声が上がる。きっと誰かがホームランを打ったのだろう。
「秋ちゃんひどーい。それを言っちゃぁ、おしまいなのよ」
ぽかぽかと頭を殴りに掛かってくる夏実を、秋彦は避けようとしない。夏実の腕では秋彦を傷つけることも、それ以前に触れることもできないからだ。
彼女の体はとっくに、煙と灰になってしまっていたから。
×××
夏実の体が時を刻むのをやめたのは、四年前の夏。
交通事故に巻き込まれ、即死だった。
秋彦が最後に見たのは死化粧を施され、花に埋もれるようにして柩に収められた夏実の姿だった。だから正直、夏実の死に実感が持てずに涙は出てこなかった。その後の事は、良く覚えていない。
翌年の夏休み――奇しくも夏実の命日となった日に、秋彦は補習の帰りがけに何気なく立ち寄った美術室で、夏実と「再会」を果たした。
その一日だけ、学校へ現れる夏実の霊。
なぜ美術室なのかと問えば、「秋ちゃんは美術室に居る印象が一番強かったから」という答えが返ってきた。
以来、夏実の命日になると秋彦はこの美術室へやって来て、夏実の絵を描く。
その夏実の絵は、生前に描いたものを含めて五枚目になった。
幼なじみであり、事故の前まではほぼ同じだったふたりの身長も、今では秋彦のほうが頭ひとつぶん以上高い。時を刻むことをやめた夏実と、変わらずに時を刻み続ける秋彦の差がそこにある。
「ねぇ秋ちゃん、来年は来られそう?」
夏実の問いに、秋彦はしばし考え込む。
「来年は就活で忙しいだろうからな……先生に都合を付けてもらうのもいつまで頼めるかわからないし。でも、なんとか時間作るよ」
「そっか、秋ちゃんもそんなトシかぁ……」
しんみりと呟く夏実の向こう、日陰の外にある花壇では、強烈な日差しにヒマワリがじりじりと灼かれている。同い年だろ、という突っ込みに、「あたしは正真正銘、永遠の十六歳だもん」と夏実は胸を張る。
それは威張ることではないと思うが、あえて反論はしない。
秋彦は鉛筆を片付け、汚れた手を濡れたタオルで拭きながらぽつりと問いかける。
「なぁ、夏実は……いつまでここにいるつもりなんだ?」
そうだなー、と夏実は窓の外に視線を泳がせた。
「秋ちゃんが結婚して、幸せになるまで、とか?」
「そんなんじゃ、いつになるかわからないぞ……」
「それでもいいよ。だってあたしには使い切れない時間があるんだもの」
冗談めかして笑う夏実に、秋彦は苦笑する。
ふたりの奇妙な夏の一日が、ゆっくりと過ぎていく。
×××
「ばいばい、秋ちゃん」
やがて空が赤みを帯びる頃、夏実は手を振ってゆっくりと、空に溶けるようにして消えていった。残された秋彦は、鞄を抱えてひとり歩き出す。
ふと立ち止まり、鞄の中から取りだしたのは一通の手紙だった。封筒の表面はだいぶよれてきている。
この四年、渡せずにいる手紙。
「好きだ」と口に出せずに、手紙に託した想いを伝えられぬまま、夏実は逝ってしまった。渡してしまったらもう二度と夏実に会えなくなるような気がして、手紙は今も秋彦の手元にある。
「感傷、だよなぁ……」
死者を思い続けることの不毛さなど、知っている。
それでもまだ、この手紙を渡してしまう決心はつかずに今年も過ぎてしまった。
溜息と共に手紙を鞄に戻し、秋彦は再び歩き始める。
夕暮れの道では、蝉に代わって気の早い秋の虫たちが鳴き始めていた。
電撃掌編王への投稿作を改稿、当時のお題は「夏」「学校」「幽霊」。
表現したかったのは主に「人が居なくてちょっと寂しい夏休みの学校の空気」です。
2007年6月