ゆうぐれ心模様
夕暮れ空は茜色
じきに紫、いずれ蒼
寂しくなったら帰っておいで
×××
戸を開けると、わずかに湿った風が通り抜けた。
まだ明かりの灯っていない室内は、夕暮れ時には少し薄暗い。
「ただいま」
縁側に座った兄は、振り返らずに「おかえり」と答えた。ガラスのコップの中で溶けた氷がからり、と音を立てる。
ハルは鞄を置いて、兄の隣で膝を抱えた。隣のペンギン型ロボットはつぶらな瞳で庭を眺めている。
「ねぇアキ、振られちゃった」
寡黙な兄は「誰に」、とは問わなかった。
決して話を聞いていないのではないことはハルが一番良く知っているし、今はそんな物静かな兄の性格がありがたくもあった。
『ごめんね、ハル』
そう告げた声はただ優しくて暖かくて、だから泣くことはできなかった。泣いて欲しくないとあのひとは言ったけれど、本当はあのひとの為ならいくらでも泣いて良かったのだ。
思えば、恋というのは劇薬だ。だからこそロミオとジュリエットは出会ってわずか五日で互いの命を投げ出すことができたのだろう。
ジュリエットにはなれなかったけれど、それほど悲しくは無かった。
ただ、寂しくて、少しだけ悔しかった。
もしも自分がもう少し大人であれば、あるいは女だったら。
――あのひとは、なんて答えただろう?
でもそれは自分にどうすることもできないことだし、望んだすべてのことに手が届くと思うほど、ハルはもう子供ではなかった。
「人を好きになるって、難しいね」
「ハル」
ぽつりと呟けば、思いがけぬ強さで肩を抱き寄せられた。
自然と、兄の肩にもたれる形になったハルの頭を少しつめたい手が撫でる。
「アキ、明日から料理教えて」
「……いいよ」
――いつかあのひとを悔しがらせてやるんだから。
うんと魅力的な人間になって、めいっぱい困らせてやる。
そんなささやかな復讐を心に誓って、ハルは目を閉じた。今日ぐらいは少し兄に甘えていても罰は当たらないだろう。
吹き抜ける風に、風鈴が小さく音を立てる。
遠く、気の早い蝉の鳴き声が聞こえたような気がした。
×××
手のひらに触れた弟の頬が熱かった。
白い髪からは微かに、日の匂い。
僅かに自分の鼓動が早まったのを感じ、アキは心の中で自嘲する。
おまえは、今の胸の裡を弟に明かせるのか――と。
雪谷アキが『自分はどこかおかしい』と自覚しだしたのはいつからだったか。
慌ただしく過ぎ去った大神災からの数年は、自身の中でろくに記憶がない。激変した環境と両親や知人、友人を一度に失ったショックもそこそこに、アキは未だ幼い弟を守り生きていくために必死にならざるを得なかったからだ。
その過程で、少しずつ失われていったもの。それは、疲弊し磨り減った心の一部だった。
悲しみも苦しみも、怒りも喜びも。そのすべてが、以前のように感じられない。どこか他人のように、冷静に受け止められるようになってしまっていた。そんな彼の変化を知らない人間は『穏やかで寡黙だ』と評する。いや、おそらく今は弟ですら。
だから、誰も知らないし知らなくて良い。
自分の裡にある、こんなにも汚れた感情などは。
疲れからか、いつの間にか弟は肩にもたれたまま小さく寝息を立てていた。
未だ線が細く、華奢な体。生来の色素の薄さも相まって、ともすれば少女にも見紛うその姿を愛しいと思う。できるならばずっと、手許に留めておきたいほどに。
そう思うのは過剰な肉親としての愛情なのか、倒錯した劣情ゆえなのかは最早自分でもよく判らない。
この七年のあいだ、兄として、時に父として誰よりも近くで弟の隣で生きてきたのだから。
だから先ほどの話を聞いて、どこかほっとしたのも事実なのだ。
どこにも行かなくていい、誰のものにもならなくていい。
――この先もずっと、俺が。
「ん……」
眠るハルが少し苦しげにこぼし、アキの意識を引き戻した。
いつの間にか、肩を抱く腕に力が入りすぎていたらしい。グラスの氷は、既に溶けてしまっていた。
幾度めかの深い溜息を吐いて、アキはぬるくなった水を飲み干した。
より強く湿り気を帯びた、生ぬるい風が吹き付けてくる。
子供はいつまでも子供ではない。今の生活にもいつか必ず終わりの日が来るだろう。そのことは十分に判っているつもりだ。
それでも、今は。今だけは、何も考えずにいたい。
遠雷の音を聞きながら、アキは目を閉じた。
自PCハルと、兄のアキの話。
色々とややこしい兄弟です。