雨の日には紫陽花の傘を持って

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雨の日には紫陽花の傘を持って

 相も変わらず灰色の空を眺めて、夜久明は幾度めかの溜息を吐いた。
 雨宿りを始めてからどのぐらい経っただろうか。飽きもせず降り続く雨は土砂降りと呼ぶほどには強くなく、かといって濡れたまま歩くのをよしとできるほどには弱くない。
 だから、明は見知らぬ洋館の玄関ポーチで途方にくれていた。
 急に降り出した雨をしのげそうな場所は、周囲にはこの洋館だけだった。門はまるで来訪者を待っていたかのように微妙に開いていたが、分厚い扉は固く閉ざされたままで、主の名を示す表札もない。試しにベルを鳴らしてみたが反応はなかった。
 冷静になって振り返ってみれば、どこへ向かおうとしていたのか、何故ここにいたのかという記憶が明には曖昧だった。そもそも、明にとって夢の世界の認識は『ラブラヴィッツクリニック』の敷地内が中心で、その外に何があるのかはあまり意識したこともなかった。
(なんで俺、こんなところで雨宿りしているんだろう……)
 ぼんやりと明が自問自答を始めた矢先、凛とした声が響いた。
「隣、よろしいかしら?」
 はっと顔を上げると、いつの間にかひとりの少女が目の前に立っていた。年の頃は自分とそう変わらないだろう少女は、どこかクラシカルなセーラー服に身を包んでいた。なぜか今時の女子高生というよりは、女学生という響きが似合う趣きをしている。
 明が思わず頷くと、少女は微笑んで隣に立った。一瞬ふわりと広がった長い黒髪にはいくつもの水滴がついている。
「急に降り出してくるものだから。丁度雨宿りできそうな場所があって助かったわ」
「あ、俺もそんな感じで……ここ、誰の家か全然わからないんだけどね」
 仄かに花のような香りがするのは、少女が香水でも身に着けているからだろうか。そんな事を思いながら、明は手短に自分が雨宿りしている経緯を話した。少女は興味深そうに扉を振り返り、「誰が住んでいるのかしらね」と呟いた。
「うーん……俺には検討つかないなぁ。随分と立派だけど、まさか貴族の館とかじゃないだろうし」
「どうかしら。案外、王様や貴族が実際に住んでいるかもしれないわよ。私は真紅辺薔子。あなたは?」
 明の言葉に幾分含みのあるような笑みを浮かべて、薔子と名乗った少女は笑った。
「俺は夜久明。短い間だろうけど、よろしくね薔子ちゃん」
「ええよろしくね、明さん」

 そうしている間にも雨は降り続き、一向に止む気配を見せない。
 なのに地面がぬかるむ様子も見せないのは、やはりここが夢の世界だからなのだろうか。
 薔子以外には通りがかる者もおらず、動物の姿も見えない。雨粒以外全ての時間が止まってしまっているのではないか、とすら思えてくる。自分一人でこのまま放置されたなら、きっと気が滅入っていただろうと明は思った。
 彼が他愛のない雑談の種を選ぶのに難儀しはじめた時、灰色の世界の停滞を乱す第三者が現れた。
「あぁほら、噂をすれば王様が来たみたいよ。ねぇ、黄昏の王様?」
「え、ホントに?」
 薔子の視線の先には、古めかしいインバネスを身に纏った少年が立っていた。頭上には傘の代わりか、紫陽花の花が数束掲げられている。花から滴り落ちる水滴のせいで肩先が濡れているあたり、効果のほどはあまりないようだったが。
「ふん、自称の地位に大した意味などないがな。それにお前だって似たようなものだろう、薔薇の女王」
 憮然とした表情で告げる少年の言葉に、薔子は艶然と微笑み返した。
「えっ、薔子ちゃんも女王様……?」
 微妙な居心地の悪さに狼狽する明に、薔子は「自称したことはないわよ」とくすりと笑う。
「なに、気にするだけ時間の無駄だ。そんなことより、三人も揃ってこんな玄関先で雁首揃えるのも芸がない」
 少年はつかつかと扉に歩み寄ると、おもむろに手を掛けた。
「もしかして、あんたの家だったの?」
「まさか。そんな訳がないだろう」
 明の問いに、少年はごく当たり前のようにそう答えた。
 彼が手にしていた紫陽花の花を一輪引き抜くと、それは手の中で古びた鍵に姿を変えた。それを扉に差し込むと、がちゃりという重々しい音と共に扉が開いた。
 思わず目を見張る明に、少年は唇の端を吊り上げてニヤリと笑う。
「この世界というのは結構なところいい加減で――誰が『そう認識しているか』でいろんなものが変容する。つまり、我の強い人間が一番得をするという訳だ」

×××

 開いた扉の先は、外観とは裏腹に日本家屋の造りをしていた。
 躊躇いなく広い三和土に靴を脱ぐと、少年はさっさと廊下を歩き始めてしまった。
「え、ちょっと、いいの? これ?」
 慌てて声を上げた明に、少年はあぁ、と振り返る。
「外は知らんが、中は俺の家を“思い出している”から問題ない。そういえば、名乗っていなかったな。高円寺夕莉だ」
「あ、えっと。俺、夜久明。よろしく……」
 夕莉と名乗った少年のマイペースぶりに調子を乱されながら、明も家の中へと上がった。
「そういえば薔子ちゃん、全然驚かないんだね」
「そうね。彼とは面識もあるし……いろんなものが変容するっていうのも初見じゃないから、かしら」
 明の知らないところで、この世界というのは随分とはちゃめちゃに出来ているらしかった。
(クリニックの中って、なんだかんだで平和なんだなぁ……)
 そんな事を思いつつ、通された奥の間からは広い庭がよく見えた。
 暗く沈む灰色の景色の中で、雨に打たれた木々の葉がその存在を色鮮やかに主張している。
「へぇ、すごいね。あっちには鯉がたくさんいそうな池もあるし、紫陽花もあんなにたくさん咲いてる。夕莉の家って広いんだな」
「いや……この庭の景色は俺だけでは……ああそうか、ショウコの記憶か」
 視線を向けられた薔子は、何も言わずに微笑んだ。
 いつの間にやら、その手元にはどこから現れたのかティーポットとカップが置かれている。
「雨が上がった後どうするかは、上がってから考えましょう?」
 薔薇の女王はそう言って、優雅に笑みを深くした。
 この雨が上がるまで、きっと時間はたっぷりとあるのだから。

 薔子さんと明くんは他のPLさんちの子です。
 チャットで「この三人の取り合わせを」とのお題を貰って書いたもの。